甲子園を見ながら思うこと

JINより

高校野球=エクスペクタクルスポーツヒューマンリアリティーショー

甲子園を見るのが楽しみな季節が来て、わたしは嬉しい。野球経験がない人、プロ野球に興味がない人でも、甲子園を見る人は非常に多いと思う。それはきっと、「真摯に向き合う、礼儀正しい、青春をかけてる、厳しい練習を続けてきた・・・」、そんな高校球児の輝く姿を見られることを楽しみにしているのだろう。少なくともわたしは、甲子園を見るたびに、高校球児の一挙手一投足を見るたびに、輝いている姿を見られて幸せだと感じる。

更に個人的に好きな点としては、高校球児が良くも悪くもアマチュアだからだと思っている。甲子園・高校野球とは、まだまだノビシロのある選手が多く、今後プロ野球界に羽ばたくかもしれない球児の成長を幼い頃からみられることが一つの魅力だと思う。特に日本人は、人の成長を見るのが好きな人種なのではないかと感じる。それは、ポケモンやドラクエが流行ったように、何かを育てるということに楽しみを感じられる価値観を持っているからだと考える。甲子園で活躍する高校球児に、どこか未来の日本を背負う若者の成長する姿を、重ねているような気がしている(少なくともわたしはそうだ)。

また、甲子園での試合を見ていると、プロではあまり見られない失敗をしてしまうシーンも多々見られる。ここに、人間味や一生懸命の片鱗を感じている。人間とは失敗する生き物だ。しかし、大人になればなるほど、プロになればなるほど、失敗に対して厳しい視線が注がれるようになり、また大人やプロは失敗をしないようになっていく。しかし、いつまで経っても人は人であり、失敗をする生き物なのである。どれだけ厳しい練習に耐えてきても、人生を懸けてきても、失敗をしてしまうのである。そこに、映画やドラマ、漫画などでは到底描けない、ヒューマンリアリティーショーを見ることが出来る。そして、失敗を悔やむ選手、それを励ます選手の絆に、人間としての温かみ、仲間への思いやりを感じるのである。

つまり、高校野球とは、全国の高校球児とそれを支える方々によって作られた「エクスペクタクルスポーツヒューマンリアリティーショー(壮大な少年野球ノンフィクションドラマ)」なのである。この大作をおよそ2週間に渡って、我々はみることが出来るのである。こんな素晴らしい作品を見せてくれる球児、運営者、関係者の方々には心より感謝の意を伝えたい。

自分にとっての白球は?甲子園は?

朝起きて、始業時間まで甲子園を見て、昼休憩になったらまた甲子園を見て、夜は熱闘甲子園を見て。そんな日々を過ごす内に、ふと、「自分にとっての白球とはなんなのだろう、甲子園とはなんなのだろう」と思うようになった。高校球児が必死に追っている「白球」。高校の3年間だけではなく、なんなら幼少期からずっと夢見てきた「甲子園」。そんなようなものが、今の自分にあるのだろうか?

必死に甲子園で戦い、白球に青春を懸けている高校球児を昼休みいっぱい見た後に、仕事用PCをつけた瞬間、デスクトップに反射する、生気のない目をしている自分の顔を覗く。「いつから自分はこんな目をしているのだろうか」、「いつから何かに人生を懸けなくなったのだろうか」、そんな疑問が頭を過ぎる。もちろん、「生気のない目になるまで仕事を頑張っている、会社と仕事に人生を懸けている」、そういう風に自分を言い聞かせることも出来なくはないだろう。だが、今日はこの記事を書くにあたって、そんな言い訳や戯言で覆い隠さず、真正面から今の自分に向き合ってみたいと思った。

少なくとも今の自分には「白球」といえるものがない。もしかしたら、「お金や資産」、「休日や友達との遊ぶ予定」などが「白球」なのかもしれない。うーん、なんとも微妙な答えである。確かに、これらを追っているし、これらに必死になっているといえばそうなのであろう。起きている時間の大半を仕事に費やして対価であるお給料を得て、それを元手に、週末の余暇は友達と遊ぶ際のお金に充てる。また、日々自分が過ごしやすい生活環境を維持するための資金にしている。そうなってくると、高校球児が必死に追って、繋いで、スタンドにかっ飛ばしているように、「見た目は必死そうに見えていないだけで、自分なりに白球を追い続ける日々を送っているかもしれない」。世の大人たちよ、もしくは何かに熱中していると胸を張って言えない人たちよ、君たちにとっての「白球」とはなんだろうか

甲子園」、一度はその舞台に立つことを夢見て、敗れ去った暁には、その土を持って帰る。そんな熱意をもってまで到達したい場所はどこなのだろうか。家に帰ってきたら美味しいご飯が待っていて、妻や子どもと楽しい会話をして、休日には近くの公園でみんなでピクニックするような日常だろうか。それは確かにたまらなく到達したい。だが、甲子園には「3年間しか立つことを許されない」。幸せな日常には、どれくらい立つことが許されているのだろうか。妻との喧嘩や、子どもの反抗期、仕事に忙殺されて蝕まれる精神などが、高校野球でいうところの、「甲子園に行けない、あきらめなくてはいけない」瞬間なのだろうか。

そもそもすべてをイコールで対比させていくことは難しい。だが、残り数少ない試合日数の間に、この問題について向き合ってみたいと思うと同時に、そんな邪心を思いっきり放り投げて、無心で楽しみたい自分もいる。

「甲子園」がくれた、夏休みの僕の宿題。

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